陝西(せんせい)省の省都。周、秦、漢、隋、唐の都、当時は長安と呼ばれた。
日本からの多くの遣唐使がこの長安で唐時代の文化を吸収した。秦始皇帝陵、
これを守る兵馬俑坑、玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの場所華清池、玄奘三蔵の
大雁塔、中国唯一の女帝則天武皇の乾陵、空海の修行した青龍寺、漢の武帝
の茂陵、阿倍仲麻呂の記念碑、歴代名筆の石に刻んだ碑を集めた石林、文物を
すべて集めた博物館、楊貴妃の墓所、興慶宮公園など見所は数え切れない。
特に唐時代は日本との交流が盛んだっただけに、日本人にとって興味の尽きないと
ころである。今の西安市の城壁は明時代に建設されたもので、唐時代はその何倍
もの広さがあったと言われる。
現在西安は西地区の政治、文化、教育の中心地として栄えている。

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西安の東50キロのところで1974年揚という農民に
よって発見された。西側にある秦始皇帝の陵を守
るための素焼きの兵馬が6000体以上発掘されてい
る。当時の戦闘体勢そのままの形である。

兵の俑(よう)、俑は人形の意味である。殉職者の代わりに
副葬した。一人一人の体形、顔つきや衣裳が異なる。
民族も様々である。手には青銅製の武器を持っていた。
身長は平均180cmとなっている、実物より大きめに作られて
いる。

青銅製の馬車のレプリカ。始皇帝はこの馬車に乗って移動
したものとみられる。
精巧な作りになっている。

唐三彩の焼き物。褐色、緑色、藍色三色で彩色されて
いる。唐時代の傑作とされる。現代の技術でもこの色は
出せない。
唐三彩の代表的作品で唐時代のシルクロードを使っての
活発な交易の様子がうかがえる。

秦始皇帝(前259〜前210)陵。38年間70万人を使って建
造されたとされる。この中に始皇帝を弔った史上最大の地下
宮殿が眠っている。湖や河に盗掘防止のため一面に水銀を
流し込んであるといわれ、発掘は今なお危険で当分は発掘
の計画はない。

秦始皇帝陵での秦時代の兵の踊り。手には当時の長い武器
を持ち平均身長180cmの兵の踊りは迫力がある。秦の軍隊が
強かったのがわかる気がする。

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華清池(かせいち)と楊貴妃(719〜756)像.。華清池は玄宗
皇帝(685〜762)と楊貴妃のロマンスの場所としても有名であ
る。白楽天の長恨歌にも詠われている。
玄宗皇帝の寵愛を受けて栄華を極めるが、戦乱で殺され、
悲劇のヒロインとなる。
中国四大美人の一人。

乾陵。中国唯一の女帝・則天武皇とその夫であった高宗を
合祀した陵墓。参道の両側の石像がすばらしい。
陵墓は先の方に見える小山の中にある。唐時代最も繁栄し
た時代であり、この地下宮殿も秦始皇帝陵に匹敵する規模
をもっているのではないかと思われる。
近々発掘を始めるという情報もある。

則天武皇(624〜705中国では武則天という)挿絵。科挙の
制度を推進し広く人材を集める、仏教を擁護するなど、治世
は安定していた。国号を一時期唐から「武周」に改めた。しか
し、権力のためには太子や皇女など身近な者まで死に追いや
るなど残虐な一面をもっていたので後世の評価は分かれる。
乾陵には文字の書かれていない碑がある、後世の人が自分の
評価をして書けばよいとの意思であったようだが、今なお無字
碑になっている.。

今回のメンバー四人右端が筆者(乾陵入り口にて)

唐時代の踊り、当時の衣裳や雰囲気を再現して見せてくれます。

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阿倍仲麻呂(698〜770)記念碑、「天の原ふりさけ見れば春
日なる三笠の山に出し月かも」という本人の歌と、李白の追
悼の詩が刻まれています。19歳で遣唐使として長安に留学、
玄宗皇帝に寵遇され、また海難に阻まれて在唐五十余年そ
の間節度使として安南(ヴェトナム)に赴き治績をあげた。つい
に帰国を果たせず長安に骨を埋めた。(備考:追悼の詩)
長安で詠んだ「天の原…」の歌は押さえきれぬ望郷の念が聞
く人の胸を打ちます。長安で玄宗皇帝、楊貴妃、李白と同じ
時代で付き合いが深かったということです。

西安の郊外にはこのようなすばらしい別荘もあります。

 (備考)

 阿倍仲麻呂に対する李白追悼の詩(碑には「李白哭晁卿衡」とある)

 日本晁卿辞帝都 (日本の晁衡どのは都長安に別れを告げ)
 政帆一片遶蓬壺 (彼が乗る船は蓬莱の島をめぐる)
 明月不帰沈碧海
(明月の如き君は暗い海に沈み帰らず)
 白雲愁色満蒼梧
(白雲も悲しみの色に染まり蒼梧の空を覆っている)

 注釈
     1「晁衡」とは阿倍仲麻呂の中国名
     2「征帆」遠くに旅する船
     3「蓬壺」蓬莱
     4「蒼梧」中国東南の沿海部
     5「阿倍仲麻呂」698〜770 、「李白」701〜762
      これからもわかるとおり李白の方が仲麻呂より8年早く亡くなっているのです。
      李白は仲麻呂の帰国の船が遭難して亡くなったと伝えられてこの詩を詠んだ
      のです。反骨の詩人李白は権限を持つ宦官高力士の恨みを買い長安には
      あしかけ三年しかいなかったので、仲麻呂の消息をどこかで誤り伝え聞いてこの
      詩を詠んだものと思われます。李白が仲麻呂の人格と才能を高く評価していた
      証拠でしょう。