臥薪嘗胆についての考察

「臥薪嘗胆」の故事に関して日中での解釈の違いがあります。
これについてご意見を頂きましたので、更に検証を深めてみました。
日本では呉の国の夫差(ふさ)が臥薪をし、越の勾践(こうせん)が嘗胆をしたことになって
いますが、中国では一般的に越の勾践一人が臥薪嘗胆したことが通説になっています。
とはいっても、中国でもその真偽のほどは究明しがたい一つの謎なのです。臥薪嘗胆につ
いて中国で検証されている内容を中心に、私が調べた範囲で以下述べたいと思います。

☆山東大学孟祥才教授の話
1、「臥薪嘗胆」は後世の人による創作かもしれない 
 
最も信頼に足る春秋時代の「左伝」(
著者左丘明)「国語」(著者不明だが左丘明説が有力)には
臥薪嘗胆には一言も触れられていません。
前漢の司馬遷の「史記」には勾践「嘗胆」(坐臥即仰胆、飲食亦嘗胆)とあるが、臥薪は
記載されていません。  
唐宋の時代になって初めて「越王出則嘗胆、臥則枕戈」という言葉が出てくる。(戈は矛−
ほこ−の意)すなわち矛を枕にして寝たということです。  
臥薪嘗胆の言葉を初めて使ったのは北宋の詩人蘇軾(そしょく)(注1参照)です。ただし
勾践とは関係なく「三国」の記述の中で使っていますが(注2参照)、彼は偉大な文豪です
からその言葉の影響は大きかったといえるのです。  
また一方、春秋や漢時代の歴史家が勾践の臥薪をうっかり記載し忘れた可能性もあります。
すなわち勾践は呉に敗れてのち三年間呉の国で馬夫(馬小屋の番人)をやらされた。そのと
き芝草の上で寝た可能性も非常に高いのです。
(注1)蘇軾(そしょく)(1037〜1101)        北宋時代の政治家、詩人、書家。四川省の
出身 、号は東坡(とうばDongpo)北宋最高の詩人とされ、その詩は「蘇東坡全集」にまとめ
られています。
気骨があり豪放な性格で、もっぱら伝統を重んじる官僚集団のリーダー司馬光とまた司馬
光の政敵で革新を唱える集団のリーダー王安石とも異なる政見を持っていたのです。そのた
めそのどちらが政権を握っても彼は迫害を受け続け、地方官を歴任しました。杭州で 任に
ついているとき西湖の堤の造営で苦労した人たちを豚肉の醤油煮込みを自ら作ってもてなし
た。これが杭州名物・東坡肉(ドンポーロウ)の由来だと伝えられています。
(注2)蘇軾が三国時代呉の孫権が魏の曹操宛の手紙として書いた文章の中に「私(孫権)
が臥薪嘗胆した」とあるが、これは彼(蘇軾)が遊び心で書いた文章なので史実でもなく、まし
てや呉越の戦いとは全く関係のないものです。

   臥薪嘗胆の図(「金羊網」より引用)

2、呉越の戦いの舞台裏  
当時呉の国の西に位置する楚の国が強大であったが次第に没落する過程で人材が近隣の
と越に流れたのは当然の成り行きと考えられます。伍子胥(ごししょ)や伯喜否(はくひbopi)
また斉から孫子(孫武)などが呉にやってきた、また越には范蠡(はんれい)や文種など有能な
人材が集まってきました。  
呉越の戦いは楚の国を侵略させない為に両国を拮抗させ強大な国を作らせないと言う目的
が楚からの人材の考えの中にあったのではないでしょうか(ただし、伍子胥は楚に恨みがありこ
れの復讐の為に呉にやってきたことになっている・・・筆者注)。
呉越の戦いの真の演出は楚の国の連中が行ったとも言えます。また呉が中原を目指し領土
を拡大するには、南に位置する越にまず打撃を加え後顧の憂いをなくしておく必要があったの
です。
これは越にとっても同じことであり、当時としては呉越の戦いは個人的な因縁の問題を越えて
歴史的、必然的な成り行きであったといえるのです。

☆その他の説  
南宋の「左氏伝説」(
呂祖謙)明代の「春秋列国論」(張溥)又その後の「左伝事緯」(馬馬粛)、
「繹史」(
馬馬粛)などでは夫差が臥薪嘗胆したと記されています。
一方南宋の「戊辰四月上殿奏札」(
真徳秀)、「古今紀要」(黄震)、「黄氏日抄」(撰者:黄震
には逆に勾践が臥薪嘗胆したとなっています。
清代の「綱鑑易知録」(
呉乗権)では勾践が呉の国での三年の苦役ののち国に帰って臥薪嘗
胆したとあり、またすぐその後出された「東周列国志」(
余邵魚)では越王勾践「累薪而臥、不
用床褥:又懸胆于坐臥之所、飲食起居必取而嘗之」(薪を重ねその上で寝た、ベッドや敷
きふとんは用いなかった、また坐るところ寝るところに胆を吊し、飲食や寝起きの際には必ずこ
れを嘗めた…筆者訳)とあってこれが中国では一般に広く伝わったものと思われます。
現在中国の歴史書や辞書などにはすべて「勾践臥薪嘗胆」となっています。*
括弧内は著者名
一方日本では、十八史略{宋末期から元初期にかけて曾先之(そうせんし)が著した史書。
史記から宋鑑までの十八の歴史書をわかりやすく、面白く紹介するという目的のために書かれ
たもので中国では資料性は低いとみられています。しかし他の情報量の少ない外国人にはと
ても重宝されたようです。}で夫差臥薪、勾践嘗胆となっておりこれが広く読まれ人口に膾炙
(かいしゃ)されたものと思われます。

日本では江戸中期以降、中国史を知るための本として広く読まれました。臥薪嘗胆につい
て日本においては作家の小説や教科書などすべて十八史略の記述の通りとなっており疑い
を差し挟む余地はなかったのです。

☆まとめ  
中国においても臥薪嘗胆は歴史的に有名な故事ですが、これという説は確立されてなくいま
だに一つの謎なのです。  
呉越の戦いの歴史的背景(越は呉に敗れて国力は落ち、呉にとらわれの身となった越王・
勾践は夫差に許されて帰国してのち、越の国の人々とまさに艱難辛苦を共にし、国力の回
復を志した、すなわち自ら先頭に立って田畑を耕し夫人は機を織ったといわれる)、また両国
の国力の差などを勘案するとき、越王勾践が臥薪嘗胆したという中国での通説は納得が行
くように思われます。
また、どん底の中、血のにじむような苦労を重ねた末に成功を勝ち得たという教訓的意味に
おいても勾践臥薪嘗胆のほうが理解しやすいように思われます。  
史記にあるごとく勾践が嘗胆のみを行ったのが史実に一番近いのかもしれません(司馬遷は
史実の記述については慎重で厳格であったといわれる)。しかし臥薪と嘗胆が既に切り離せ
ない一つの述語として確立していますから、私は中国での解釈のように越王・勾践が臥薪
嘗胆したと見る方が妥当ではないかと考えています。
中国では十八史略は俗書として卑しめられ歴史家でこれを論拠とする人はほとんどいませ
ん。
日本もそろそろ十八史略の記述から離れるべきではないでしょうか。

紹興市(越の都会稽)府山公園にある「越王台」−勾践が臥薪嘗胆したところといわ
れている。

*参考文献 
「山大視点」山東大学新聞中心(孟祥才教授の話)     
「華夏経緯」華夏経緯資訊科技有限公司 臥薪嘗胆の項目    
「Wikipedia」臥薪嘗胆、十八史略および蘇軾の項目     
「中国通史」紀江紅 北京出版社
「金羊網」羊城晩報集団 臥薪嘗胆の項目

*なお本記事作成に当たっては何媛媛さん(‘わんりぃ’媛媛来信のコラム筆者)と荘魯迅氏
(中国歴史研究家、作詩家、音楽家)の皆さんのご協力を頂きました。