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呉音の伝来
中国の言葉が日本に最も早く伝来したのは「呉」の国の言葉である。呉音として現在
でも使われています。何時どのように伝来したかは諸説あり確たるものはないようです。
中国の記事から一つの可能性の高い説をここで紹介してみたいと思います。
即ち、呉越の争いと関係があるという説です。
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| 呉越地図 (「呉越舷舷」塚本青史 集英社より引用改変) |
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(注) |
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呉は長江(揚子江)の南に位置する。五湖は現在の太湖、姑蘇は蘇州、銭塘江(せんとうこう)は年一回海の水が津波のように押し寄せるので有名な川。
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呉は周王朝の流れを汲み、周の本来の継承者太伯(たいはく)が建国したものです。
太伯は父王の意向を汲みみずから南に向かい入れ墨をして周には終生帰らない意
思を内外に示した。彼の人格に惹かれて多くの人が付き従ったといいます。
(注、呉など南の地域は当時から入れ墨の習慣があったようで、この習慣が後年日本
にも伝えられたものと考えられます)
越との問題はその子孫の闔閭(こうりょ)の時に発生します。越との小競り合いで闔閭
が傷つきその怪我のため、闔閭が死亡してしまいます。その跡を継いだ夫差(ふさ)は
父の敵(かたき)を討つべく越との戦をしかけ、勝利します。越王勾践(こうせん)は会稽
(かいけい)で屈辱的な降伏を強いられます。勾践は臥薪嘗胆(嘗胆は食事の前に苦
い熊の肝を舐めたと言います)、呉への復讐の機会を狙うことになります。また勾践は自
分の部屋に入ってくる部下に「汝は会稽の恥を忘れたるか」と言わせ「いえ決して忘れて
おりませぬ」と答え、復讐の気持ちを片時も忘れぬようにしたと言います。宰相の策士范
蠡(はんれい)は密偵を放ち逐一呉の情報をつかむとともに、絶世の美女西施(せいし)
を夫差に献上し、呉の属国となった越に対する夫差の注意を極力そらすようしむけます。
西施は中国四大美人の一人で「西施の顰(ひそみ)に倣(ならう)」という言葉が出来た
ほどの美人です。西施が心臓の病のため苦しげに眉をひそめたのが、また色気があって
一段と美しかった、それを皆まねをしたというのです。中国語では「効西施之顰」といいま
す。また猫も杓子もそのまねをしたのを冷やかす意味で「東施効顰」という言葉まであり
ます。
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越王勾践臥薪嘗胆の図 (「中国通史」紀江紅 北京出版社より引用) |
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日本では呉の夫差が臥薪をし、越の勾践が嘗胆したといわれているが、上の挿絵に
あるように臥薪嘗胆したのは勾践なのです。呉と越とではもともと国としての格の違い
があり、また国力の差があり、呉の夫差は臥薪する必要はなかったものと想定されま
す。「史記」には勾践嘗胆とあり、元時代の「十八史略」には夫差臥薪、勾践嘗胆
となっています。日本では、「十八史略」の解釈を採用し、どの書物にも上記のような
表現になっていますが、「十八史略」は一般向けにわかりやすく面白おかしく書き表し
たもので中国では歴史性が低いと見られています。中国の辞書で臥薪嘗胆を検索
すると勾践のことしか出てきません。夫差については一切記述がないのです。
ここでは中国サイドの解釈を採用しました。臥薪嘗胆の詳細についてはこちら
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夫差は越は眼中になく、中原の覇者たらんことを望み中原に進み呉を留守にした隙を
勾践と范蠡につかれます。姑蘇(こそ)城外干隧(かんすい)での最後の戦いに敗れ、
夫差は庶民として暮らすべく、勾践に命乞いをしますが、勾践は前に夫差に命を助けら
れたこともあり許そうとしますが范蠡が許しません。「あなたはまた呉と同じ過ちを犯そうと
するのですか」と勾践に諌言し、BC473年夫差は自害をして果てます。ここに呉は滅亡
してしまいます。

(太湖で見かけられた帆船、呉の時代もこのような帆船に乗っていたのではないでしょうか)
地図でわかるとおり北は揚子江(長江)東は海です。逃げ場を失った人たちは「海に逃れ
て、日本に来たのではないか」とこういう説もあるのです。
魏志倭人伝のもととなる書物に倭人は「太伯の後也」とみずから名乗ったとあります。
「後」は後裔(こうえい)の意味です。
また魏の国のあと三国を統一した晋の「晋書」や梁(りょう)の国の「梁書」にも同じ記述が
あります。この時点で呉の人たちが日本に渡ってきたのではないか、呉の言葉や水稲、蚕、
衣服その他の習慣や技術を持ち込んだのではないかと思われます。日本では和服屋とい
うべきところをいまだに「呉服屋」と呼んでいますし、「呉」姓があるのもその証左ではなかろう
かと思われます。
秦の始皇帝の命を受けて徐福(じょふく)が不老長寿の仙薬を求めて日本に来たという説も
あります。そのときに呉の国の地域から出発したので呉の言葉が日本に伝来したということも
考えられます。この説をとれば前説よりも250年後のことになります。
いずれにせよ呉の言葉が日本に伝来したのはかなり早い時期だったのではないでしょうか。
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日本・中国年表 |
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呉越の戦い裏話
呉越の戦いの真の主役は両国の宰相呉の伍子胥(ごししょ)と越の范蠡(はんれい)
だと言うことも出来ます。伍子胥は楚の名門に生まれ父が政敵に殺され呉に逃れ、
呉王闔閭につかえ楚に復讐の機会をうかがった。十数年の後、楚を破り宿願を果た
した。闔閭が越との戦いで傷つき亡くなって後は夫差をたすけ、越への報復を果たし
ます。会稽に越王勾践を破り、この機会に勾践を亡き者にすべきと主張して入れられ
ず、越が呉の属国となった後も常に越に注意すべきと夫差に進言して入れられず、し
つこく言い過ぎて夫差にきらわれ、逆に謀反の罪をきせられて自害する羽目に追い込
まれてしまいます。死に臨んで伍子胥は「我が目をえぐって呉の東門に掲げよ、やがて
越が呉を滅ぼすであろうその有様をこの目で見届けたい」といって死んだといいます。
夫差は呉に破れ自害に際して「伍子胥に会わせる顔がない」と言って顔を布で覆って
自害したと言います。
一方勾践につかえた范蠡は呉に復讐を遂げた際、夫差の助命嘆願を拒絶すべきと
主張し、呉が完全に滅びるのを見届けるとさっさと勾践の元を離れています。彼の考え
は「狗は追うべき兎がいる間は大事にされるが、兎がいなくなると煮られる運命にある」
というのです。また勾践は苦労は一緒に出来ても猜疑心が強く楽しみを一緒に出来る
人物ではないと考えたようです。
後になって、陶の地に陶朱公といわれる大富豪が現れたがこれは交易によって莫大な
富を築き上げた范蠡の亡命の後の姿であったといわれます。
伍子胥と范蠡、呉越の戦いの二人の実質的な主人公のこの対照的な生き様、処世
術と結末は呉越の結末とともに明暗が鮮明に分かれています。
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西施像 |
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