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| 宦官について | ||||||||||||||||||||
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1、中国における宦官(かんがん)の発祥と進展の経緯 中国においては200〜300年毎に争乱が起こり次の王朝に引き継がれて行く経緯が見受けられますが、その争乱の遠因となっている一つに宦官の存在が挙げられます。 |
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2、著名な中国の宦官 ・趙高(ちょうこう) 始皇帝の死後、自らの保身のために始皇帝の遺言を偽造、自らの息のかかった末子胡亥を皇帝に擁立、本来の後継者長子の扶蘇を自殺に追いやった。丞相の李斯を讒言により処刑させ、自ら後任の丞相となり、権勢をほしいままにした。あるとき皇帝の前に鹿を連れてきてこれは馬だといいはり、自分の意になびかず鹿だと言い張った人物に対してあとで理由をつけて処刑を含む処分をした。これが「馬鹿」(ただし中国ではアカシカの意味で日本の馬鹿の意味はない)の語源だともいわれる。また阿房宮の増設を行い、莫大な費用をつぎ込んだ、民衆を労役にかり出し大いに恨みを買う。「阿呆」の語源ともいわれる。いずれにせよ秦朝の滅亡を早めた人物です。 ・司馬遷(しばせん BC145〜BC86?) 前漢時代の歴史家。司馬遷は匈奴との戦いで敗れた友人李陵を弁護し武帝の怒りにふれ宮刑に処せられた。彼は屈辱にうちひしがれ自殺を考えたが、自分の死は世間にとっては「九牛の一毛」に過ぎないと考え直し、発奮して後世に残る二十四史の一つ、黄帝から漢の武帝までの史実を伝える52万語に及ぶ「史記」を完成させた。(司馬遷像参照) ・蔡倫(さいりん) 後漢時代の人。紙の発明者とされる。ただしその後前漢時代の紙が発見されているので、発明者とは言えないかもしれない。ともあれ紙の質の改良に多大の功績のあった人物である。 ・十常侍(じゅうじょうじ) 後漢末期の霊帝の時代に権勢をふるった宦官集団。実際には十二名いたという。人民を搾取し、黄巾の乱の発生、三国時代への移行の遠因となる。 ・高力士(こうりきし 684〜762) 唐の玄宗皇帝の秘書役として仕え権勢を振るった。反骨の詩人李白は高力士の恨みを買い長安には長くとどまれなかった。玄宗皇帝が退位すると高力士の権勢も衰えた。 ・鄭和(ていわ 1371〜1433) 明の永楽帝は明の権勢を世界に広げる目的をもって鄭和に大艦隊を率いての航海を命じた。彼は代々イスラム教徒の色目人(トルコ・アラビアなどの人種)であったが明軍にとらえられて宦官にされてしまった。永楽帝は即位後に彼に宦官の最高位を与えている。鄭和の遠征に使われた船は「宝船」と呼ばれ500トンという当時としては大型船であった。一番多いときで五万人の部隊を率いたといわれる。全部で七度の航海を行っている。ほとんどが沿岸づたいである。鄭和の航海は多額の出費となった。中国として具体的な収穫は少なかったため、その後鎖国政策をとる一つの遠因となったようである。(鄭和像、航海地図、宝船 参照) |
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| 司馬遷像 | 鄭和像 | |||||||||||||||||||
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| 鄭和の宝船 | ||||||||||||||||||||
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| 鄭和の七度に及ぶ航海地図(…………は航路を表す) | ||||||||||||||||||||
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3、その他の国の宦官制度 古代エジプトやアッシリア、ペルシャ帝国といったオリエント諸国でも用いられた。役割としては中国同様後宮に仕える者が多かったのです。 |
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4、日本における宦官制度 幸か不幸か日本に置いては宦官制度は全く導入されなかった、世界の歴史に置いては珍しい国の一つにあげられるでしょう。 |
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| (参考文献)
インターネットフリー百科事典 Wikipedia 中国通史(上下巻) 張麗生編 黒龍江科学技術出版 三国史話 呂思勉著 中華書局 |
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