宦官について

1、中国における宦官(かんがん)の発祥と進展の経緯

中国においては200〜300年毎に争乱が起こり次の王朝に引き継がれて行く経緯が見受けられますが、その争乱の遠因となっている一つに宦官の存在が挙げられます。
それでは宦官とはなにをいうのでしょうか?
男性で去勢された官僚を意味するのです。
中国に置いて宦官の記録が残っているのはかなり古く、殷(商)王朝の時代にさかのぼるようです。BC14世紀には宦官が存在していたようなので、4000年以上の歴史があることになります。
なぜ、宦官という者が生まれたのかというと、商王朝(中国では殷といわず一般的に商と呼ぶ)は周辺の異民族との戦いでとらえた捕虜を刑罰の一種としてとして去勢ということが執り行われたのです。
古代には五種類の刑があったといわれます。墨(mo顔に入れ墨をする)、鼻(yi鼻をそぐ)、非(fei足切り−足の指を切る)、宮(gong宮刑)、大辟(dapi切り裂く−死刑)となっている(注:このうちyi、feiは日本語にない字なので代わりに使わせてもらいました)。
最初は異民族に対してのみ行われた刑でした。
そのうちに大罪を犯した同族に対しても行われるようになったのです。
また後宮など男子禁制の場所があり、このような場所では性行為能力を取り除かれた者を使ったのが宦官の始まりだとされています。
しかし、のちに皇帝や寵妃などに重用され、権勢をふるう者も出てくるようになると、自主的に去勢して宦官を志願する者が出てくるようになったのです。一般庶民階級の者が高位に登る道は科挙の厳しい試験を通る以外にはこの方法しかなかったのです。
明代には10万人にふくれあがったという記録もあります。
清朝のラストエンペラー溥儀が紫禁城から追放されるとき(1924年)には、既に人数はかなり激減していた筈ですが、しかしそれでも皇帝とともに宦官470名が紫禁城から出てきたといわれています。
皇帝にとって宦官は最も忠実な側近だったということができるでしょう。
皇帝はどうして宦官を信頼したのでしょうか?宦官は常に宮廷内にあり外部との接触も少なく、秘密をまもることができ、また妻子や家族もいないため私利を図ることが少ないと思われたからです。
暗愚な皇帝ほどしかめつらした一般の官僚と話すより宦官と話す方が気楽にできるためこれを好んだようです。
宮廷の表舞台は科挙によって選ばれた官僚が執り行い、裏舞台は宦官が取り仕切るという構図が中国の歴代王朝の支配体制となっていたのです。

2、著名な中国の宦官

・趙高(ちょうこう)

始皇帝の死後、自らの保身のために始皇帝の遺言を偽造、自らの息のかかった末子胡亥を皇帝に擁立、本来の後継者長子の扶蘇を自殺に追いやった。丞相の李斯を讒言により処刑させ、自ら後任の丞相となり、権勢をほしいままにした。あるとき皇帝の前に鹿を連れてきてこれは馬だといいはり、自分の意になびかず鹿だと言い張った人物に対してあとで理由をつけて処刑を含む処分をした。これが「馬鹿」(ただし中国ではアカシカの意味で日本の馬鹿の意味はない)の語源だともいわれる。また阿房宮の増設を行い、莫大な費用をつぎ込んだ、民衆を労役にかり出し大いに恨みを買う。「阿呆」の語源ともいわれる。いずれにせよ秦朝の滅亡を早めた人物です。

・司馬遷(しばせん BC145〜BC86?)

前漢時代の歴史家。司馬遷は匈奴との戦いで敗れた友人李陵を弁護し武帝の怒りにふれ宮刑に処せられた。彼は屈辱にうちひしがれ自殺を考えたが、自分の死は世間にとっては「九牛の一毛」に過ぎないと考え直し、発奮して後世に残る二十四史の一つ、黄帝から漢の武帝までの史実を伝える52万語に及ぶ「史記」を完成させた。(司馬遷像参照)

・蔡倫(さいりん)

後漢時代の人。紙の発明者とされる。ただしその後前漢時代の紙が発見されているので、発明者とは言えないかもしれない。ともあれ紙の質の改良に多大の功績のあった人物である。

・十常侍(じゅうじょうじ)

後漢末期の霊帝の時代に権勢をふるった宦官集団。実際には十二名いたという。人民を搾取し、黄巾の乱の発生、三国時代への移行の遠因となる。

・高力士(こうりきし 684〜762)

唐の玄宗皇帝の秘書役として仕え権勢を振るった。反骨の詩人李白は高力士の恨みを買い長安には長くとどまれなかった。玄宗皇帝が退位すると高力士の権勢も衰えた。

・鄭和(ていわ 1371〜1433)

明の永楽帝は明の権勢を世界に広げる目的をもって鄭和に大艦隊を率いての航海を命じた。彼は代々イスラム教徒の色目人(トルコ・アラビアなどの人種)であったが明軍にとらえられて宦官にされてしまった。永楽帝は即位後に彼に宦官の最高位を与えている。鄭和の遠征に使われた船は「宝船」と呼ばれ500トンという当時としては大型船であった。一番多いときで五万人の部隊を率いたといわれる。全部で七度の航海を行っている。ほとんどが沿岸づたいである。鄭和の航海は多額の出費となった。中国として具体的な収穫は少なかったため、その後鎖国政策をとる一つの遠因となったようである。(鄭和像、航海地図、宝船 参照)

司馬遷像 鄭和像
鄭和の宝船
鄭和の七度に及ぶ航海地図(…………は航路を表す)

3、その他の国の宦官制度

古代エジプトやアッシリア、ペルシャ帝国といったオリエント諸国でも用いられた。役割としては中国同様後宮に仕える者が多かったのです。
古代ギリシャ、ローマ、東ローマこれらの国でも受け継がれ宮廷内部の仕事を担当した。特に、東ローマ帝国では官僚として重く用いられ宗教上の指導者も多く輩出しています。失脚した皇帝の子孫から皇帝を狙って反乱を起こす者がでないよう去勢された者もいたようです。
一夫多妻制であったイスラム諸国ではオリエントの伝統を受け継いで宦官が用いられました。
特に、オスマン帝国では後宮を仕切り、陰の実力者としてふるまうようになったのです。

4、日本における宦官制度

幸か不幸か日本に置いては宦官制度は全く導入されなかった、世界の歴史に置いては珍しい国の一つにあげられるでしょう。
理由として次の項目を取り上げてみました。
1、島国であり異民族との接触が少なかった。そのため宦官制度発祥のきっかけとなった異民族を去勢するということがなかったのです。
2、遣隋使、遣唐使を中国に派遣したが、隋時代は刑罰としての宮刑が禁止された時代であり、この制度を学び持ち帰るということがなかったのです。
3、去勢は遊牧民族が動物を家畜として飼い慣らす方法として用いられたのがそもそもの起源とする説もあるが、日本は農耕民族で遊牧民の習慣がなかったのです。
4、中国は皇帝の権力も絶大で後宮は5000〜20000人といわれる。皇帝の意を汲んで働く宦官の存在は欠かせなかったと思われますが、日本の天皇及び将軍の権力は中国と比べようがなく、大奥の管理は女官の長「…局(つぼね)」に任せておけば事足りたということでしょう。

(参考文献)

インターネットフリー百科事典 Wikipedia 

中国通史(上下巻) 張麗生編 黒龍江科学技術出版

三国史話       呂思勉著 中華書局