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関羽は信義に厚い性格であったので商売の神様として「関帝廟(かんていびょう)」
が数多く建てられ庶民の信仰の対象になっています。(「関帝廟」の欄参照)
(2)髀肉(ひにく)の嘆
劉備が劉表のところに身を寄せているとき、涙したのを劉表に聞かれて答えた言葉
から、即ち、馬に乗って戦場に赴くことがない日が続き髀肉(太ももの内側の肉)が
肥え太ったことを嘆いたことから、功名を立てたり力量を発揮する機会に恵まれない
無念さを言い表す言葉となった。
(3)三顧の礼(劉備が三たび諸葛孔明の庵を訪れて軍師に迎えた事例から)
目上の者が礼を厚くして頼むこと
(4)水魚の交わり
三顧の礼で迎えた孔明と劉備が日夜親しく語り合うのを義兄弟の関羽と張飛が面
白く思わず不満を劉備に言ったのに対して劉備が答えた言葉です。「我の孔明ある
は、魚の水があるが如きなり」、即ちなくてはならない、切っても切り離せない関係で
あることを説明したのです。
(5)士は三日見ざれば刮目すべし(士別三日刮目相看)
「呉」の将軍呂蒙(りょもう)の言葉です。以前の自分とは違うのだということを強調し
ています。 呂蒙は若い頃は武勇一点張りであったが、ある時主君の孫権にさとされ、
一念発起学問に励み、学者をもしのぐほどの学識をもつに至った。呉の将軍魯粛
(ろしゅく)が後輩呂蒙と会って話をすると、以前の彼とは全く違っているので「呉下の
阿蒙にあらず(「阿」は…「ちゃん」という感じ)」と驚いている魯粛に対していった言葉
です。呂蒙は魯粛なきあと対関羽戦の指揮を執り、関羽の性格を見抜き、関羽を
陥れ、破ることになる。戦略家としても抜きんでた存在になったのです。「呉下の阿蒙
」は昔のままで進歩のない人物、学問のないつまらない人物を指すようになった。

(6)泣いて馬謖(ばしょく)を斬る(揮泪斬馬謖)
「劉備」亡き後「孔明」は何度か「魏」との戦いのため北伐を行ったが、最も才能に恵
まれ将来を嘱望していた部下「馬謖」が彼の軍令に背いたため、これを許せば軍律
が保てないと、心の中では泣きながら斬罪にした有名な故事です。
孔明は法家の流れをくむとみるべきか、法や規律を細かく定め、これを厳しく遵守さ
せた。ただし、馬謖の事例にあるとおり、私情をいっさい挟まず、信賞必罰すべてを
公正に処理したようです。孔明の治世下法の遵守、違反した場合の処罰は厳し
かったが市井に怨嗟の声は全くなかったとつたえられています。孔明が私心がなく、
まさに公明正大であった証でしょう。
今年三月成都でタクシーの助手席に乗ったとき、中国では初めてシートベルト着用
を運転手から厳しく注意された(北京などではシートベルトをすると運転手から逆に
必要ないと注意される)。
さすが孔明の国だなと感心させられました。
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